弊社との歴史

 

1987年 サカキバラコーポレーションの設立

サカキバラコーポレーションは、1987年に先代社長、榊原達雄が設立しました。
先代は安宅木材に入社後、日本の商社マン木材部門では、初めてのアメリカ、ポートランドの現地駐在員として、当時はシナ合板を米国に販売しておりました。その後。米国ニューヨーク支店で米材、フィリピンマニラ支店で、南洋材を担当しておりましたところ、安宅産業が1975年にカナダの製油所プロジェクト破たんから、伊藤忠商事に吸収合併されることになり、1977年に安宅産業を退社して、マックミラン・ジャーデインに入社しました。

当時の日本は南洋材、米松、米ツガが、輸入材としてメインでしたが、石油ショック後の世間では、過伐採、はげ山、森林環境破壊等のニュースが出始めており、木材業界には厳しい時代になり始めておりました。
父は新しい代替材を世界中に探し回り、南アフリカまで足を延ばしました時、南半球には、植林した針葉樹の森林が多く存在していることを知りました。
その後、豪州、NZ,南米を回り、いよいよ、チリにたどり着きました。

1977年

米国サンフランシスコで、アラウコとマックミラン・ジャーデインが、日本へ丸太輸入の契約を結びました。
米国西海岸が日本とチリの中間地として選ばれました。
当時は日本から南米に行くには、3回乗継をしないと行けない遠い国でした。
当時のアラウコはラジアータパインの森林保有会社、パルプ主体の会社でした。チリ側は今後の森林伐採の増加を見越して、新しい世界市場開拓を検討しておりました。また、日本側は、カナダからの米松、米ツガのサブとして、チリラジアータパインの輸入が、西日本を中心に、製材、パルプ用に始まりました。

1979年

アラウコの森林保有会社とパルプ事業会社がグループ企業から、一つの会社へ統合されることになり、保有している植林木の森林から、今後計画伐採で出てくる丸太の有効活用を検討する時期になりました。
小径木は自社のパルプ工場へチップ用に供給され、大径木は世界市場を狙い輸出用の丸太に選別され、中径木はチリ国内の製材工場へ供給されました。

1980年

 
1980年代前半は、主にチリからは丸太の輸出が中心で、まだ製材を日本へ輸出する時期ではありませんでした。
当時のアラウコは、製材を自社で生産する製材工場はありませんでした。

アラウコは、板等を輸出する際は、提携製材工場のミニンコの製材をアラウコのブランドとして取扱いをしておりました。

1980年半ば以降から、アラウコは、チリ国内で丸太を供給して製材を挽かしていた中小の製材工場の中から、優良工場の買収を始めて、まず角材の日本向け輸出を始めました。また定期的にチリの中小製材工場が日本へ薄板の輸出を始めておりました。当時のラフ挽きは、厚み、幅の精度が出ないので、3面プレーナー挽きで、精度を出して歩ムラを解消しておりました。
当時は割板、割角はプレーナー挽きが難しく、まだ生産はしておりません。

1986~1987年

マックミラン・ジャーデインがアラウコと丸太、製材の輸入販売の代理店契約を解消することになり、チリとの10年間の販売関係に終止符をうちました。その際、アラウコより、チリ材の日本における総代理店をやってくれと頼まれ、1987年にサカキバラコーポレーションが設立することになりました。
1987年は、丸太が22万m³、角材が8万m³、薄板が3万m³の取扱い数量で、当時はまだ割板、割角、パレット材は販売していませんでした。

1990年~

1990年代になり、アラウコは自社で年間、丸太投入量20万m³、製材数量が10万m³クラスの大型製材工場の建設を自社で始めることになります。
当時国内最大手の製材工場をモデルにした、日本向け主力工場になる、1番目の自社工場エルコロラド工場を1991年に建設しました。
この製材工場の登場により、従来続いていた、3面プレーナー仕上げは終わりをつげ、ラフ挽きでありながら、プレーナー仕上げ並みの精度とスムーズな引き肌を出す、鋸の刃の先端に特殊な鋸ジリを付けて実現した製材方法を採用しました。
現在のチリ製材工場で主流となる製材技術で1995年以降は、チリサプライヤーは、板材と角材をメインに梱包向け市場の販売拡大に進んでいきます。

アラウコは1993年を最後に、四国伊予三島向け、大王製紙のパルプ用丸太の輸出も役目を終えて、16年間続いた日本向け、丸太の販売に終止符を打ちます。
チリがラジアータパイン丸太の輸出を止めた為、NZの業者が日本市場へ丸太の輸出を本格的に参入してきました。

1996年頃からは、幅狭材、パレット材の生産が始まり、1997年頃から、割板、割角の生産が始まります。

2000年~

 
2000年代になりますと、グリ-ン製材だけではなく、乾燥材(kD材)の販売がチリから始まります。主な市場は北米向け、内装集成材の部材で、主に窓枠、ドア枠、室内の幅木等に使われております。
まだ日本向けは、製紙メーカーの乾燥パレット材や和室用の鴨井敷居に限定されており、日本市場はまだまだ梱包、パレット向けグリーン材がメインでした。

2006年4月、アラウコが、日本向けNo.3のチリサプライヤ-を当時の日本円、160憶円で買収をしました。この買収で、アラウコ社は21,000haの森林と、250,000m³の製材、KD工場を手に入れました。これがチリでは最後と言われた民有林と製材工場の大型買収で、それ以降はチリでは大規模な買収はありません。アラウコの目的はラジアータパインの森林取得であり、製材工場は数年後には閉鎖をして、チリ大地震(2010年2月27日)の震災復興支援として、旧製材工場跡地には、現在、公営住宅が建っております。

2000年代後半は、アラウコの製材工場は13製材工場となり、1980年代の買収、取得をした製材工場の一部閉鎖、一部製材工場のリニューアル及び新規工場による製材工場の再編時期になります。

2004年、南米最大の製材工場として、ヌエバアルディ工場がオープンしました。丸太投入1,000,000m³、生産数量はグリーン材600,000m³で、その内430,000m³は10の乾燥室を持ち、KD材が生産されています。
アラウコ全体の生産数量の約4分の1を占める主力工場で、アラウコ製材工場で最大の500人の従業員がおります。
パルプ工場(950,000トン)と合板工場(200,000m³)も併設されております。

2010年2月27日に起きました、M8.8のチリ大地震は、アラウコ8製材工場の内、7製材工場が被害を受ける災害になりました。
特に、震源に近かった、海外沿いに位置していた、ムルチェン工場(年間120000m³)が25m近い大津波で、製材工場が消失しました。
当時は、3月末に予定していた、日本向けバルク船はキャンセルになりましたが、幸いなことに、各製材工場は震災後、約2週間で早期の操業を開始して、5月配船を実現して、最小限のデリバリー遅れで納めました。

2010年のチリ大地震以降、アラウコ直営の製材工場は8工場になり、ピーク時から5工場減りました。しかし、一部の製材工場を2ラインに増設した結果、生産数量は、2011年以降、年間2,500,000m³の生産状況がで続いております。
 

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